日記

阪神大震災から19年経ちました

 

 

 

 

 

 

こんばんわ。スタッフの小島です。
みなさんのご愛読、感謝しております。

 

 

 

 

 

昨日1月17日は「阪神大震災」が起きた日です。
ちょっと長いですが今日はそのことを書きたいと思います。

 

 

 

 

 

19年前・・・時は1995年。
小島は芦屋の中学に通う中学2年生でした。

 

 

写真はその母校のモニュメントで隣のクラスの子1人を含む
5人が亡くなり、16人が遺児になりました。

 

 

地震が起きた朝の6時前なんて真っ暗闇な上に
電気・ガス・水道は止まっている。

 

身の危険を感じ外に出ると
ガス管が破裂しているのか頭痛がするほどの
鼻をつくガスの臭い。

 

 

家の目の前に小さな商店街がありまして・・・
なんとなーくシルエットを見ると、どうやらはしご車
が来ていると見えた。

 

 

「おお! もう救助に来てくれているのか!」

 

と少し安心した。

 

 

※これ後で書きますね

 

 

 

 

朝日が昇りだんだんと視界がハッキリしてくると
そこいらじゅうで家が壊れ倒壊していた。

 

近くを走る阪神電車はジェットコースターのように
渦を巻いていた。

 

 

 

中学2年生の僕はまず最初にこう思った。

 

 

 

 

 

 

この世は終わるんだ

 

 

 

 

 

 

と。

 

 

 

 

いつまた大地震がくるかもわからない。
マンションの屋上に設置してある貯水タンク
が崩落するかもしれない・・・

 

 

次そうなったら完全に死ぬ。
(家の前の駐車場の車中で避難していたので)

 

 

 

配られた朝刊には絶望的な見出しが
デカデカと載っていた。

 

 

 

完全復興不可能

 

 

 

 

 

 

テレビ、新聞、半壊している建物の写真を見ると
5階立ての建物はなぜか真ん中の3階がペシャンコ
になっていた。構造上弱いのは中間なのか?

 

 

 

 

まさに当時5階建てのマンションの3階に住んでいたので
もう本当にだめかも・・・って。

 

 

 

泣いた。初めて神様に祈った。
真剣に。頼むから命だけは助けてくれ・・・。

 

 

 

ただ命を長らえるだけのことを
全力で心の底から臨んだ経験って
この時が初めてでしたね。

 

 

 

 

 

 

 

・・・2週間・・・

 

 

 

 

 

後に学校は再開されたけど、
地方に散らばった同級生もたくさん
いたようで3分の2ほどの生徒しか集まらなかった。
この時に

 

 

 

 

 

 

 

疎開

 

 

 

 

 

 

 

という言葉をよく耳にした。

 

 

 

 

あのね、戦時中じゃあるまいし
まさか生きている間にこの言葉を聞くとは
夢にも思わなかったよ。

 

 

 

 

 

 

生活面でもなかなかに稀な経験をした。

 

 

 

電気は割とすぐ来たのだけど
水とガスの供給が始まったのは
3月でしたかね。

 

 

しばらくお風呂もない、水も出ない
生活を経験しました。

 

 

毎日自衛隊の給水車に水を汲みに行く
生活。

 

 

毎日、毎時間3日間は震度3前後の余震に
怯える日々。

 

 

 

精神的に「狂って」しまった人もいた。

 

 

 

育ちざかりのデリケートな思春期の時に
この生活はなかなか大変だった。

 

 

 

たぶん女の子はもっと大変だっただろうな・・・。

 

 

 

でもそれは「今」だから気づいた話で
当時はだれもそんなこと気にも留めてなかった。

 

 

気づけないほど不安が空間を
びっちりと埋め尽くしていたから。

 

 

 

でも人間って「慣れて」いくんですよ。
環境に適応していく。それなりに
生活をしはじめる。

 

 

 

なんやかんや言いながら前へ進み始める・・・
復興はどんどん進んでいきました。

子供は希望だったと言う人がいた

 

 

 

 

 

 

被災生活の中で常にあふぉみたいなことばかりして
人を笑わせていた連中ばかりが小島の周りにはたくさん
いたので実はエンジョイしていました。

 

 

 

バスケばっかりして、ファミコンばっかりして
学校ないって最高だな~って(^_^.)

 

 

ほら、ファミコンってテレビゲームって悪影響だって
言われていたじゃないですか?

 

 

時間無制限にしてたということが
中学生にとってどれだけ天国なことか(笑)

 

 

・・・と同時に早く友達にも会いたかったですけど。

 

 

 

 

 

 

実は

 

 

 

 

 

慣れた被災生活に笑いを運んできてくれていたのは
子供だったね・・・と話してくれた人がいます。

 

 

 

 

 

 

誰だと思います?

 

 

 

 

 

なんと・・・

 

 

 

 

 

 

 

浅野セラピスト♪

 

キラーン★

 

 

 

 

彼女・・・ボランティアとして六甲アイランド
の液状化の中尽力してくれていたようです。

 

 

 

シャンプーとか出来ない中
美容師の資格をもっていた浅野は
髪を切ってあげ、節水の中シャンプーしてあげてたみたいですよ。

 

 

 

 

 

 

芦屋に来とけよ!(笑)

 

 

 

 

ボランティアの人たちに被災者が
どれだけどれだけ・・・

 

 

 

 

 

どんれだけ助けてもらったか・・・!!!

 

 

 

 

例えば電気復旧工事・・・

 

 

 

 

 

静岡、奈良、岡山、他もっと
たくさんの業者が助けに来てくれた。
別に知り合いとかじゃないのにですよ?
車でやってきてくれて。

 

 

逆にこちらが気を使ってお茶を出す・・・
みたいな光景はわりと見た気がします(笑)

 

 

 

 

あと、小島が一番強烈に印象に残っている出来事があります。
それは

 

 

 

 

 

炊き出し

 

 

 

 

 

 

配給で食事を取っているとはいえ
冷たいものばかり。
野菜もまだまだなかったんで栄養が偏りがちでした。
(スーパーがどこも開いてない)

 

 

 

 

そんな折に他県から炊き出し
をしに来てくれた方たちがいて。

 

 

 

温かい食べ物を本当に
久しぶりに口の中に入れた時に
語弊を恐れずに表現すると

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだ・・・

 

 

 

 

 

 

卒倒しそうになるほどに!

 

 

 

 

死んだ・・・古い自分が。
そう

 

 

 

 

 

生まれ変わった!

 

 

 

 

 

ちょっと泣きそうになったくらい。温かい食べ物が
ヒトにこれだけの恩恵をもたらしてくれるのか・・・!!
って感じた瞬間でした。
このインパクトだけは19年経った今でも
鮮烈なのです。

 

 

 

 

 

マンパワーを感じた出来事はそれのみならず
学校でも他府県から救援物資も本当にたくさん
頂いたり。

 

 

 

 

 

ちょっとずつ希望が湧いてきて
明るさもみんな取り戻してきて・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ・・・ひとこと言わせてくれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

誰だよ・・・

 

完全復興不可能とか

 

言った奴は( 一一)

 

 

 

 

 

 

 

今現在2014年。

 

 

 

 

阪神間は見事に生まれ変わった。
ていうか震災以前より

 

 

 

 

 

 

 

断然に綺麗♪

 

 

 

 

 

凄いですよね人間の力って。
あの時は神戸を筆頭に
阪神間が一致団結してたと思います。

 

 

 

 

オリックス(野球)も「がんばろう神戸」のスローガンを立て
本当に優勝しちゃうし!

 

 

 

 

 

やろうと思ったことは

 

全部叶うんだな

 

 

 

という価値観・信念はこの時に形成されたような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

仕方ないよ・・・

 

でもあきらめんな

 

 

 

 

 

 

結構好きな言葉です。

 

 

 

 

 

今、南海トラフが起こる確率が30年以内に70%とか
言われています。ちょっと前まで4年以内に70%とか
言ってますね?

 

 

 

この時に防災グッズはバカ売れしたのです。

 

 

 

30年て言うと誰しもがピンとこない。
生きてないかもしれないし・・・
人生何が起こるかわからないよね・・・って言いながら。

 

 

 

でも4年以内に70%って言われると
我事のように明日は我が身な如く
危機感を募らせる。

 

 

 

変に恐怖感を煽る報道もどうかと思いますが
ハッキリ言って

 

 

 

 

100%地震きます

 

 

 

 

で構わないんですが(笑)
日本はどこにいてもどこかで地震が起こりますからね。

 

 

絶対来ると想定して防災に勤しむほうが
命が助かるパーセンテージそれこそ
絶対上がるって思うんですけど。

 

 

 

 

ある程度覚悟決めた方が
もう不必要に怖がる必要もないし。

 

 

 

だいたいそんなパーセンテージ
本当に大地震に襲われた瞬間から
どうでもいい数字になってしまいますから(^_^.)

 

 

 

今日は長々書いてしまいましたが
ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

 

 

 

 

 

はしご車が来て助けに来てくれたんだ!と思っていたそれはなんと
突き刺さっていた電柱でした。「俺、死ぬなコレ(-.-)」って思いました。
19年経って祈りを捧げました☆

 

 

 

 

 

page top